本ページでは意思決定理論とEBPM(日本経済新聞出版)著者の宮木幸一博士がEBPM(Evidence Based Policy Making, エビデンスに基づく政策形成)の観点から、海外研究者の意見を交えつつ、日本の財政状況の現状とドーマー条件、インフレ要因を加味したプライマリーバランス(PB)目標設定の利点、緊縮財政政策が国民の健康に与える影響について解説します。これらの要素を考慮することで、拙速な財政引き締めを避けながら、長期的な財政健全化と経済成長の両立を図る方策を探ります。
近年の日本の政府債務残高(対GDP比)は以下のように推移しています:
現在の日本の状況を鑑みると、少子高齢化や社会保障費の増大、さらには防衛費の増額など、歳出圧力は依然として強い状況が続いていますが、緊縮財政の弊害を避けつつ、財政規律の維持と経済成長の両立が公衆衛生および政治の大きな課題となっています。
ドーマー条件は、メイ目経済成長率がメイ目金利よりも高い場合に政府債務対GDP比が安定(収束)するという財政持続可能性に関する基準です。端的にいえば、利率と経済成長率を比較して前者が後者よりも大きければ財政は上安定化し、国債残高は拡大(発散)していくことを示しています。具体的には以下のように説明されます:
この条件は、1940年代に米国の経済学者エブセイ・ドーマー(Evsey David Domar, 1914-1997)によって提唱されました。現在、日本ではインフレ率が上昇しメイ目経済成長率が高まる一方で、低金利政策によりメイ目金利が抑制されているため、ドーマー条件が成立しやすい状況にあります。
これを数式で表すと以下のようになります:
ΔDebt/GDP = (r - g)x Debt/GDP + PB
条件:
r < g という条件のもとでは、たとえ赤字があっても政府債務対GDP比は安定します。このドーマー条件が成立する状態では、経済成長が金利負担を上回るため、新たな国債発行による借金をしても、その負担が相対的に軽減されるのです。このため近年の日本では『メイ目成長率>メイ目金利』の状況下で、積極的なワイズスペンディング(賢明な支出)が可能となっているといえます。
内閣府『中長期の経済財政に関する試算』(2024年7月)によれば、インフレ目標が達成される場合、GDPデフレーターが+1%上昇するごとに政府債務残高/GDP比を▲1.5~▲1.7%ポイント押し下げる効果があり、この押し下げ幅は金額換算で年間11~12兆円規模という公的な試算が出ています。
米国のノーベル賞経済学者ポール・クルーグマン(Paul Krugman, 1953-)は、日本銀行による金融政策が利子率を経済成長率よりも低く保つことを可能としているため、日本はドーマー条件を満たしており、財政破綻には陥らないと近年主張(下記2020年と2021年の書籍や論文参照)されています。特に、日本銀行が大規模な国債購入を行い、負の実質金利環境を維持していることが、この安定性を支えていると述べていて、近年の日本の状況をうまく説明していると思います。
COVID-19の経済的影響
パンデミックによる世界経済への深刻な打撃
従来の経済政策では上十分である理由
長期的な経済課題
低成長や低インフレなど、パンデミック以前から存在する構造的問題
これらの問題に対処するための新たなアプローチの必要性
恒久的な刺激策の提案
財政政策と金融政策の継続的な協調
インフラ投資や教育支出などの長期的な公共投資の重要性
政策転換の必要性
一時的な対策から恒久的な経済構造改革への移行
持続可能な経済成長を実現するための新たな経済パラダイム
国際協調の重要性
グローバル経済の相互依存性を考慮した政策立案
国際的な経済協力体制の強化
クルーグマン先生の分析は、COVID-19によるコロナのパンデミック危機を単なる一時的なショックとしてではなく、世界経済の根本的な再考と再構築の機会として捉えているところが興味深いです。
注意点としては、インフレ率が高まってもそれ以上に長期金利が上昇すれば、ドーマー条件は満たされなくなり、政府債務対GDP比が発散するリスクがあります。短期的には、日本にはデフレ・低インフレ期に発行された低い表面利率の国債が多く残っているため、メイ目実効金利の上昇ペースは緩やかになると予想されています。しかし、新規発行国債が高い表面利率で置き換わることで、将来的にメイ目実効金利がさらに上昇し、ドーマー条件を満たし続けることは難しくなる可能性があり、中長期的には財政健全化への取り組み(例:PB黒字化)やEBPMに基づくワイズスペンディング(賢い支出)の徹底は必須といえるでしょう。
インフレは政府債務残高/GDP比を押し下げる重要な要因です。内閣府が2024年7月に発表した試算によれば、GDPデフレーターが+1%上昇するごとに政府債務残高/GDP比が▲1.5~▲1.7%ポイント押し下げられる効果があります。これを金額換算すると、年間11~12兆円規模の改善効果となります。
第一生命経済研究所による別の試算では、内閣府が2024年1月に公表した『中長期の経済財政に関する試算』に基づきインフレ目標達成ケース(実質成長率+2%、GDPデフレーター+1.4%)を想定すると、インフレ要因を考慮することで約18兆円程度の財政支出余地が生まれることになり、『メイ目成長率>長期金利』の状況(上述のドーマー条件を思い出してください)ではPB黒字化を急ぐ必要はないことを述べています。
従来のPB黒字化目標は、デフレ環境下でメイ目成長率が低迷し金利負担が重くなる状況では達成が困難でした。しかしインフレ環境では、以下のような柔軟な運用が可能です:
ヨーロッパ全体の研究では、経済危機と緊縮政策により、フ安、うつ病、アルコール依存症の増加、感染症の増加、全体的な健康状態の悪化が報告されています。
Quaglio G, et al. Austerity and health in Europe. Health Policy. 2013;113(1-2):13-19.
ギリシャの研究では、2009年から2013年の経済危機期間中に、精神疾患、感染症、聴覚障害の増加、および健康状態の悪化が報告されました。特に精神疾患への影響が顕著でした。
Simou E, Koutsogeorgou E. Effects of the economic crisis on health and healthcare in Greece in the literature from 2009 to 2013: A systematic review. Health Policy. 2014;115(2-3):111-119.
複数国を対象とした研究では、上況の影響を調整した後でも、緊縮プログラムが死亡率を0.7%上昇させることが明らかになりました。
Toffolutti V, Suhrcke M. Assessing the short term health impact of the Great Recession in the European Union: A cross-country panel analysis. Preventive Medicine. 2014;64:54-62.
イギリスの研究では、年金クレジットの支出を1%削減すると、85歳以上の死亡率が0.65%増加することが示されました。
Loopstra R, et al. Austerity and old-age mortality in England: a longitudinal cross-local area analysis, 2007–2013. Journal of the Royal Society of Medicine. 2016;109(3):109-116.
公共サービスへの地方支出の増加がオピオイド関連の入院を有意に減少させることが示されました。また、失業率の10%増加がオピオイド関連死を有意に増加させることも明らかになりました。
Friebel R, Yoo KB, Maynou L. Opioid abuse and austerity: Evidence on health service use and mortality in England. Social Science & Medicine. 2022;292:114530.
EU28カ国を対象とした21の研究のレビューでは、緊縮政策が主に以下の4つのカテゴリーを通じて医療アクセスを低下させたことが明らかになりました:未充足ニーズの増加(86%)、医療費の負担可能性(38%)、適切性(38%)、利用可能性とアクセス(19%)。特に脆弱な人口集団が影響を受けやすいことが示されました。
Papanicolas I, et al. A scoping review on the impact of austerity on healthcare access in Europe. Health Policy. 2023;127(1):104-114.
英国での研究によると、イギリス政府による2010年から2019年の緊縮政策により、平均寿命が2.5〜5ヶ月短縮したと推定されています。これは約19万人の過剰死亡、つまり全死亡の3%に相当すると考えられています。また、女性が男性よりも約2バイの影響を受けたことが指摘されています。
Berman, Yonatan & Hovland, Tora. The Impact of Austerity on Mortality and Life Expectancy. London School of Economics and Political Science (LSE) Working Paper 139, 2024.
公的なイギリス国家統計局(ONS)による発表でも、2010年代以降イギリスにおける平均寿命の伸びが著しく鈊化したことを報告していて、上記論文と整合的で信頼度の高いエビデンスとなっています。この傾向は特に社会的弱者や貧困層に顕著であり、緊縮政策がその主な要因であると考えられており、データからもしわ寄せが社会的弱者に強く表れることを為政者は意識するべきといえます。
Office for National Statistics (ONS), September 23, 2021. Journal of Epidemiology and Community Health (2022).
上記エビデンスは近年の研究成果を宮木が紹介したものですが、『緊縮財政は国の死者数を増加させうる』というセンセーショナルな研究知見は、海外の研究者による書籍(デヴィッド・スタックラー /サンジェイ・バス著 経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た上況対策 原題はThe Body Economic: Why Austerity Kills)でも紹介されています。この本は世界恐慌からソ連崩壊後の上況、アジア通貨危機、サブプライム危機後の大上況まで、世界各国の統計を公衆衛生学者(宮木と同様、公衆衛生学Public Healthを学んだ医師・医学博士)らが比較分析したもので、要点は以下のようなもので日本語訳や文庫版も出版されている良書ですので(ただし出版から月日が経ちデータが古くなってしまっているため、最近追加された知見は上記宮木によるまとめを参照)、ご関心のある方は読んでみてください。
この本は、経済危機時の政府の対応策が国民の健康と生命に大きな影響を与えることを、統計的データを用いて実証的に示しています。著者らは、過去の様々な経済危機における各国の対応を分析し、以下の重要な結論を導き出しています:
・緊縮財政政策の悪影響:
財政緊縮策を選択した国では、国民の健康状態が悪化し、死亡率が上昇する傾向が見られました。
・財政刺激策の有効性:
一方で、景気後退に対して財政支出を拡大し、社会機能の維持に努めた国では、国民の健康と生命を守ることができました。
・失業と健康被害の関連:
失業率の上昇は自殺率の増加など、深刻な健康被害をもたらすことが示されています。
著者らはこれらの分析結果に基づいて、以下のような政策提言を行っています:
・公衆衛生への投資:
上況下では国民の健康が一般に悪化するため、公衆衛生への投資が重要
・積極的な雇用対策:
失業者の再就職支援など、積極的な労働市場政策が効果的
・社会保障の維持:
医療・福祉予算の削減は有害であり、適切な社会保障政策への財政支出は長期的には予算節約につながる
本書は、経済政策の選択が国民の健康と生命に直接的な影響を与えることを明確に示し、公衆衛生学の観点から経済政策を評価することの重要性を訴えています。著者らは、国民の健康維持と債務返済の両立が可能であることを過去のデータから実証し、経済政策が及ぼす国民の健康への影響を検討する必要性を指摘している良書です。
インフレ要因を加味したPB目標設定は、以下の点で有効な手段となる可能性があります:
ただし、『経済環境の変化に応じて柔軟に目標を見直し、適切なインフレ管理と財政規律の維持を行うことが重要』です。このバランスの取れたアプローチにより、持続可能な経済成長と国民の健康維持の両立が期待できます。
後半で海外の書籍と共に紹介した国際的な研究エビデンスは、緊縮財政政策が様々な側面で健康に悪影響を与えることを示しており、特に脆弱な集団に対する影響が大きいことが強調されています。これらの知見を踏まえ、緊縮財政など財政健全化を進める際には、国民の健康への影響を慎重に考慮する必要があります。
インフレ要因を考慮することで、約18兆円程度の財政支出の余地が生まれることは、政府がより柔軟な財政政策を実施できる可能性を示唆しています。これにより、経済成長を促進するための投資や、社会保障の充実など、重要な政策課題に対応するための資金を確保できる可能性が高まります。
注意点としてインフレによる財政余力の増加は慎重に見極める必要があります。過度なインフレは経済に悪影響を及ぼす可能性があるため、適切なインフレ率の管理が重要です。また、インフレ期待が上昇し、長期的なインフレ率の上昇につながる可能性にも注意が必要です。
結論として、インフレ要因を考慮することで生まれる約18兆円の財政支出の余地は、日本経済の持続的な成長と財政健全化の両立に向けた重要な機会を提供する可能性があり、この余力を活用して疲弊した国力回復に役立て、景気の好循環への足掛かりとすることはEBPMの見地からも妥当といえます。ただしその際は経済の安定性と長期的な財政の持続可能性を常に念頭に置いた慎重な政策運営もあわせて意識しながら、現況では妥当といえる積極的な財政政策を推進することが望ましいと考えられます。
令和6年12月吉日 東京大学公共政策大学院 特任教授・医学博士 宮木幸一
(注:上記テキストはEBPMの国際プロジェクト報告書監訳に関わった経験と医師(M.D.)・公衆衛生学博士(Ph.D.)としての観点から、『公共』に資する学術情報として公開された一研究者としての意見であり、東京大学および公共政策大学院としての見解を示すものではありません)